この連載では、初めまして!
NEXTWEEKEND副編集長のともみです。
しばらく産休育休をとっていましたが、来月復職することが決まり、この日記のバトンも受け取らせてもらうことになりました…!
この連載の編集担当だった時(初回は4年前!)は、自分も書き手になる未来を想像していなかったなあ。
先輩母さんたちの逞しく美しい背中を見せてもらってきたので、仲間入りするなんてどきどきしますが、いち新米母として今見ている景色を等身大で綴っていけたらと思います。
わが家の娘はもうすぐ1歳。
0歳児の成長は人生で一番の成長だと言いますが、その進化たるや目の当たりにしてみると本当にすごかった。
重さは生まれた時の約3倍になり、首もすわっていなかったのに猛スピードで動き回るようになり、泣くことしかできなかったのに何かをいっちょまえに訴えてくるようになり…。
赤ちゃんが「日に日に成長する」の「日に日に」は大袈裟な表現ではなく、事実として昨日できなかったことを習得し続け、毎日アップデートされていくんだとびっくりした母一年目でした。
自由自在に動けるようになった最近は、全てのものにきらきらと目を輝かせ、生きるのが本当に楽しそう。
先日保育園の面談で、母のことなんて忘れて夢中でお友だちに向かっていく姿を見て、もう大丈夫だ、赤ちゃん時代は終わったな、と思いました。
一方こちらは、朝から晩までとことん一緒に過ごしていた日々が急に夢のような時間に思えてきて、ひとりで涙ぐんでいましたが…。笑
あっというまに過ぎていく今を噛み締めていこうと改めて痛感している今日この頃です。
さて、前置きが長くなりましたが、今回のお題は「今の場所から、子どもを通して見える景色」!
最近感じていることを言語化してみようと思います。
今の場所から、子どもを通して見える景色
1.出来ないことより、今のベストを模索
2.「子どもだから」と線引きしない
3. 特別な体験よりも、小さな幸せの蓄積を大事にしたい
出来ないことより、今のベストを模索
わが家は娘と夫と私の3人家族。
都内から那須に移住し、ほとんど森のような場所で暮らしています。
娘が産まれ産休育休に入ったのと、2年前から準備していた移住がほぼ同時期にかぶった2022年。
もちろん全て望んだ変化なので、とても楽しみだったのは前提として…。
子連れでフットワークが重くなり、仕事も休み、おまけに森の中で暮らし始めたら、いつの間にかみんなの世界に追いつけなくなって、浦島太郎みたいになってしまうんじゃないかと少し恐れていました。
でも実際は、自分の世界が変わる中で、むしろみんなが今までどおり過ごしている姿を見ると純粋に嬉しくて!
楽しそうなSNSを見ても、疎外感や停滞感などはありませんでした。
その理由は、制限の中でも今できるベストを模索し、納得できているからなのかもしれません。
例えば、遅くまでお酒を飲んでばたんきゅー!という自由奔放な日常はなくなったけど、母に娘を見てもらいながら昼間に美味しいお酒を飲みに行ける有難さが沁みるようになった。
時間を気にせず欲張りに予定を詰め込んでいた旅をするのは難しくなったけど、余裕を持ってゆっくり巡る旅の楽しさを知ることができた。
選択肢が無限だった頃に比べて、今は制限の中でいかに楽しめるか、夫と共に最適解を話し合う癖がつき、視界がクリアになって走りやすくなった気もしています。
そうして家族とベストを調整しながら最大限叶えられた野心は、なんだか今までよりもずっと嬉しいし、諦めたことがあっても「今はそのターンじゃないんだな」と不完全燃焼にならず受け入れられています。
できなくなったことを数えるより、今の理想を紐解いて、できる範囲で能動的に動くこと。
そして「やりたかったことを叶える時間」の幸せをちゃんと自覚すること。
環境が変わった今、そんな感覚を自分の中で大事に磨いていきたいなと思っています。
「子どもだから」と線引きしない
最近なんとなく言葉を理解し始め、こちらの言動をよく観察したり真似したりするようになってきた娘。
全てを善悪なく吸収するまっさらな存在を見ていると、「自分が彼女の最初の世界をつくるんだ」「そしてそれはやり直しがきかないんだ」とそれなりに緊張します。
だから「子どもにかけてはいけない言葉10選」みたいなまとめにドキっとしてついクリックしたりするし、幼少期の教育に関する本を読んでは教訓や学びを心に刻んだりしました。
子どもとのやりとりが得意なタイプではないという苦手意識から、なおさら…。
でも、そういったものに触れれば触れるほど、「子どもだから」ということはあまりなくて、全部自分も同じだなとシンプルに感じるようにもなりました。
大人である私だって、
誰かと比較した言葉をかけられたら自信をなくすし、
理由なく急かされたり待たされたりしたら不安になるし、
夢中になっていることを相手都合で急に止められたら悲しい。
まだ言葉をよく理解できていない0歳児相手にだって、「そりゃ私だってこうされたら反抗するよな」なんて冷静になると理解できることも多々あります。
もちろん実際に子どもが会話できるようになってきたらそうはいかないシーンも沢山あると思いますが、「子どもだから」と線引きしたり身構えたりせず、ひとりの人間として対等に見て、自分が言われたら悲しいことは言わない、自分がされたら嬉しいことはめいっぱい表現する、とできるだけシンプルに向き合っていけたらいいなと思っています。
特別な体験よりも、小さな幸せの蓄積を大事にしたい
娘が産まれてから、埋もれかけていた昔の記憶が急に蘇ることが増えました。
今度はそれを親の視点からも味わえたりして、追体験しているような不思議な気分!
母が私の眠そうな顔を見つめながら、布団をかけ直してくれたこと。
保育園でいやなことがあった日に、お風呂の中でゆっくり話を聞いてくれたこと。
描いた絵を額に飾って何度も好きだと言ってくれたこと。
旅とかイベントごとよりも、案外そういう日常の些細なシーンこそ、断片的でも鮮明に残っていたりするんですよね。
きっとすごく嬉しかったんだろうな。
親になるとつい「特別な体験をさせてあげたい」なんて考えるけど、そんな古い記憶に触れるたびに、何はなくとも、愛情に沢山触れさせられたらいいんだよな、と原点に戻るような気持ちになります。
(もちろん特別な体験は大事ですが、それが頻繁にできないからといって罪悪感を持ったり気負いする必要はないなと)
以前とある番組で、忙しく働いているお母さんが「寝る前に子どもが持ってきた絵本は数十冊でも全部読み切る」のをマイルールにされていたのですが、その理由として「彼が悲しいと思う時間は少しでも少ない方がいいから」と仰っていて、シンプルな言葉ながらすっと腑に落ちました。
わが家もひとり親だった母が仕事に育児にいつも忙しそうでしたが、一緒にいられる時間の長さやイベントの数にかかわらず、「向き合ってくれているな」「私のことが好きなんだな」と伝わる言動が、確実にいろんなセーフティーネットになっていたと思います。
よく夫婦のコミュニケーションを「一年に一度大きな花束をもらうより、毎日一輪の花をくれる方が嬉しい」なんて例えることがありますが、そんなイメージ。
特別な体験よりも、日々の小さな幸せの蓄積を大事にしていきたいなと思います。
…と、なんだか想像以上にしっとり真面目な日記になってしまいましたが、ふんわり思っていたことを言葉に落としていく作業はいいものですね。
読んでくださった方、ありがとうございました!
今回のお題は私でラストなので、ボスの萌さんにバトンを戻します。
娘の杏ちゃんが小さな時から、さくっと二人で旅に出かけたり、温泉に行ったり、鉄板焼きをつついたり…。
相棒みたいに行動する姿は、私の憧れの母娘像です。
育児に大変なことはつきものですが、萌さんと話しているといつも未来がすごく楽しみになるんだよなあ。
最近の萌さんと杏ちゃんは、どんな会話をして、どんな日々を過ごしていますか?
次のお題と、そこから始まるみんなの日記を楽しみにしています!